2011/04/29

朝6:30


朝6時30の食卓。
テレビでは、ワイドショーともニュース番組とも区切りがつかない、テレビ番組が流れ、日本の金メダル獲得のシーンを何十回と流し、
家族や周りのスタッフたちが、どれだけその選手のためにバックアップをしたか、ということをくどいほどに語り、感動を増大させようとし、泣かせようとし、それがうさんくさくもなってきている。
朝の時間帯に流れるそれは、眠いことも重なり、苛立ちを増大させるばかりで、淡々とニュースが見たいと思う。
そこにいる男女はお互い、朝は得意というわけではなく、ゴハンも前の晩につくり、朝はそれを温めるだけというリズムを3ヶ月前から繰り返している。
外では鳥がピーチクパーチクと、話しているようにも怒鳴りあっているように、歌っているようにも聞こえるが、結局、わかるはずがない。
 おいしいゴハンっていうのは、ゴハンが立っているんだよ、知ってた?漫画か何かで書いてあったと思うのだけど。
確認だけど、ゴハンって、ご飯のことで、お米のことだよね、そんなの知らないし、知っている必要もないといえばないし、だって、ゴハンってさぁ、365日毎日食べたって飽きないし、おいしいと思うし、
でもあれって正確には、ゴハンがおいしいというよりも、ゴハンがあまりに無個性で、他のおかずを引き立たせるからおいしんと思うんだよね。
それはそうだね、同感、だって、ゴハンにはさ、納豆だって豆腐だって味噌汁だって味付け海苔だって目玉焼きだって焼きそばだって・・上げたらきりがないぐらい合うものがあるのであって
それってすごいことで、例えるなら、真っ白のキャンパスっていう感じ。
んまぁ..そういうことっていえばそういうことになるかもしれないけど、確かに、色は白と白で同じだけど、ゴハンと白いキャンパスを一緒にするっていうのは、
どうなんだろう、意味があるのかねそれ、意味っていうか、それって同じ線の上で並んでいいことなのかね。
他に想像がつかないのだからしょうがないじゃないか、おいらの貧困も想像できないような貧困な想像力では、だってよ、だって、納豆は茶色だし、海苔は黒だし、味噌汁のわかめは緑だし、卵は黄色だし、って、やっぱりゴハンはね、キャンパスなんだよ、そのキャンパスの上に色、もとい、おかずを広げていくんだよ、ゴハンは確かに、繰り返しになるけど、ゴハンは確かに白くておいしいけどさ、
でも、やっぱり飽きちゃうっていうか、他のも欲しくなるっていうのは理解できるでしょ、納得してくれるでしょ、そういうことだよ、そう考えていくと、白いゴハンっていうのはアートだよ、芸術、
だからこそ、料理をする人っていうのは、とても繊細な人のはずなんだよ、もちろん、おいしいご飯を作る人っていう前提があるのだけどね。
そんじゃぁ、このゴハンを炊いて、玉子焼きを焼いて、味噌汁を作った私は、とても繊細で、偉くて、天才で、美人って言うことになるね。
そそ、まさに才色兼備で、ゴハンのようにすばらしい人だ。
それって誉めているのかバカにしているのか、わからないけど、ゴハンのようにおいしい、もとい、うまい話じゃないわね。
なんて考えいるうちに、私の1日は始まるのだ。

2011/04/28

ゲームセンター


上には描かれた、もうここまでくると、それに見せようとする気配すらない空があり、
空が存在するという有様。
はたして、空というものは存在するものなのか、存在として確認してよいものなのか、などと考えているのは、今、部屋の中。
最中の当時、そんなことを考えることも出来ないほどの、音と男子と女子と煙と光と孤独感。
ある人は、丸い部屋のような物体に乗り込み戦場へ向かっていき、あるものは、太鼓を叩いてはしゃぎ、ある方はカードを動かし、
ある人の目ときたらそれは真剣。
ぁーゲーム脳。ぁーこれがゲーム脳と意味もわからずつぶやく部屋の中。
でもしかし、確かにあの姿を親をはじめとする大人が見たら驚愕し動ずるだろう、真剣で戦っているような目でございましたから。
その中に入れば、外の寒さも悩みもなくなってしまったように圧倒され忘却し、子供たちすら大人のように慣れて振る舞い、むしろごとく私は浮いて浮いてウロウロとし、視点も定まりません。
すれ違うものは、こちらをチェックするように目で確認し黙認し把握しておりました。
そんな中は、居心地も悪く、尻もつけず、腰も落とせずで、外に出て、うむ、これは...と呟く私を発見。
10年ぶりぐらいに入った施設。
地元ゲームセンターにて思ったこと。
アレは現実の中にある現実ではない空間なのでした。

2011/04/26

深海魚



深海魚というのでしょうかね。海の底の底にいる魚というのは目が見えないらしいくて、
それはアホよねーバカよねー。それっていうのは、進化なのか退化なのか、
目が必要ないからって何も見えなくなってしまったら、本当に何も見えなくなってしまうのにねー。
でも、もしかしたら、もう何も見たくなくなってしまったかもしれないねー。
だから、深く深く、底で暮らしているのかもねー。

2011/04/24

映画「菊次郎の夏」


気がつくと、もうすぐそこに夏が迫っていて、
一年の早さというものが身に染みるような、だからといって、何をするわけでもなく、
今年こそは!と決意したのも遠い昔のように思うのです。

夏といって思い出すのは、小学校の頃のプールの補習授業であって、
その当時の私は、25メートルプールすら泳げないのでした。
だから、夏休みに呼び出され、特訓を受けたのだけど、
今にして思えば、その水泳方法は、クロールというよりも、溺れているような水泳方法で、
「オボレール」とでも言うべきものだったと思う。
水をかく度に水を吸込み、ゴホンゴホンとむせては、足を着くと失格になるため、
何とか、足だけはつかないように、溺れながらにわらを掴むような仕草で、
何とかその状態をキープしては、再び、前へごぎだしていたのでした。
それ以来というもの、私の水泳方法は、平泳ぎのみ。
顔だけ水面のちょこんと出して、両手で目の前の水をかき分け、
決して飲みこまないように最善をつくすという泳ぎ方になったのです。
だから、じゃぁ、平泳ぎが得意かというとそういうわけでもなく、
もう何年も、プールやら海にやらへ行っておりませんし、行きたくもありません。
だって、プールは、子供たちやら人やらでごった返すし、海はベタベタするし。
どちらも、鑑賞専用です。
夏の海で、ぼんやりとするなんて素敵なことだと思いませんか?

そんな子供時代に目を細めて思い出すものが、もう一つ。
北野武監督「菊次郎の夏」。
夏休み。小学生の正男が、遠く離れている暮らしている母親に会いたい言い出し、
一人じゃ危ないということで、おじさん(北野武)と母親に会いに行くという物語。

この映画の好きなシーンは何といっても最後。
(見てない人はごめんなさい)
正男が、おじさんに向かって、「名前なんていうのー?」というと
おじさんが「菊次郎だよ!菊次郎だよ、バカヤロウ!」と照れくさそうに言うのである。

名前というのは、とても不思議だ、と思う。
仕事場などの公的場では「~さん」「~くん」と、なんの抵抗もなく使うのだが、
対象が身近な人になると、途端に何だか照れくさくなってしまう。
長く連れ添った夫婦なんかを想像してもらうと、わかりやすいかもしれないのだけど、
「おい」とか「なぁ」とか「あんた」とか、名前で呼べなくなってしまう。
悪気があるわけじゃない。
何だか照れくさいのだ。

おじさんも、正男に、名前を聞かれて名前を呼ばれて、それが何だかとっても
恥ずかしくて、嬉しくて、思わず「菊次郎だよ、バカヤロウ」なんて言ってしまうのが、
北野武監督っぽくて、好きだ。
(テレビやら本やらで見ても、北野武さん自身がシャイなのだろう。)

もうすぐ夏が来る。
おじさんと、少年の季節がやってくる。
今もどこかで、
「おじさん、またどっか行こうよ」
「行かないよ!バカヤロウ」
なんて会話をしているのだろう。

2011/04/23

わたく詩ダッシュ


こうして私の一年にわたる作業も終ろうとしております。
私はといえば、私なのですが、言うなれば私ダッシュがここにおります。
そうして、1年にわたり、私の脳の記憶と呼ばれる汁をストローのようなもので、チュチュージュジュージュルリーと啜り上げて、それば毎晩のこと。
私の脳のつむじのところにあります穴から、抽出して補完して保存して。
それが私ダッシュの作業でございました。
私ダッシュは、私の住んでいる世界と全く同じような世界に住んでおりますし、そこには東京タワーもありますが、福岡ドームだってあるのです。
リーマンショックも派遣切りの問題も他人の事ではありません。
ただ、ただただ、1つ大きな違いがあるとすれば、私たちはソレ、言うなれば、記憶を記録として考えております。
私ダッシュが啜り上げたソレ、言うなれば、記憶という記録を、補完して保存して。
銀行のようなものが私の世界にあると考えてくださればそれがよいんじゃないかと思います。
私ダッシュが私から吸い上げた記録を銀行のようなところに、預けいれます。
もちろん全てを預けるわけではありません、私ダッシュが必要だと思ったことだけを預け入れるわけですが、
それは私が記憶を落っことしていることを正当化することと何の関係がありましょうか。
それは間違いないほどに言い訳でございます。
私の世界にもあるように銀行に預け入れれば利子のようなものがつきます。限りなくゼロに近い金利ですら利子がつきます。
私ダッシュの世界で補完している銀行にだって利子のようなものがつきます。限りなくゼロ近い金利ですら利子がつきます。
大きく分けて二つです。本当はもっと細かいのですが、それを語るには時間がかかりすぎます。
ですから、二つ、簡単に言うと良い記憶と悪い記憶です。
先ほども申し上げましたが、預け入れたものには利子がつきます。
良い記憶を沢山預け入れれば良いことに利子がつき、悪い記憶を沢山預け入れれば悪いことに利子がつきます。
私の世界ではどこぞのお寺さんの家の方でしょうか、笑えばいいことがある、笑う門に福がくると、
私の記憶の中にあることを見たことがあります。
たまに、そういった世界に精通している人が私の世界にも何人かいらっしゃるようですが、そういうものなのかもしれません。
良い記憶を沢山預け入れれば、それが記録となって利子を付け、それはもう雪だるま。
でも、どうしてもどうしたって悪い記憶ばかりを預け入れてしまうことだってあります。
私ダッシュの世界では私ダッシュ以外にもあなたダッシュ、アナタダッシュ、Uダッシュ..他の他人がおります。
記録の交換とでもいいましょうか、私の世界同様に話をするのですが、それはヒドイものだってありますし、聞いている私ダッシュだって良い思いはしません。
そういうものなのです。
だから、私ダッシュの銀行では一年に一度ゼロにしましょうという話になっています。
それが12月31日のこと。ペイデイと呼ぶ人もおります。
そうして、今日の夜、私の1年にわたる作業が終ろうとしています。
PostScript.
記憶でもない記録でもないものがあると聞きます。
それについては、またどこかでお話をしましょう。

2011/04/21

春よねー!夏よねー!


春やら夏やらわからない、そんな季節の変わり目になり、
この何とも言えない、心地良さに、うっとりとしてしまうのでした。

世の中に無い言葉はない、なんてことはなく、その骨頂となるものが、今。
何か新しい楽しいことが始まるような予感もあり、
全てが実現出来てしまいそうな気分になり、
あらゆるものが前向きに進んでいきそうな、この季節。

ぶらっと駅などに出向いて、目の前に来た電車に乗り込み、
気が向いた駅で降りて、駅のホームから気の向くまま風のむくまま歩いては、
カメラなど片手に、色々な草木や花を撮影。
心の中では、一句なんて読んだりして、
鼻からは、自然と音楽が漏れ出し、
口から、嗚呼..なんて言葉にならない言葉ばかり。

やぁ!青空!
よぉ!タンポポ!
元気かい!雀さん!
やっとるか!魚さん!
やっとるぞ!どっかのオッサン!

きっと昔から人々は、この季節になると、
悩んでいることやら考えていることが全て小さく感じては、
海の向こう、空の向こう、明日のことを夢みて語り合ったのだろう、なんて、妄想して、
きっと100年後の人も、この季節になると、
昔の人は、この季節になると、きっと心が踊ったのだろう、なんて思うんだろう、
なんてことも考えて、
今はこの瞬間が、昔と未来を繋いでいるだと実感すらさせてくれる、そんな季節。

ふぃっと重松清の「送り火」の中に入っている短編の「よーそろ」を思い出す。

「異常なし、このまままっすぐ進め」いうんを、船乗りの言葉では、こない言うねん。 
よーそろ!!よーそろ!
わしも、よーそろ!
あんたも、よーそろ!
あんたの目の前の水平線は「終わり」のしるしと違うでぇ!」


そんな季節よ!




2011/04/20

わたく詩


この話は絶対に秘密。
誰にも言っちゃいけないよ。
だからそっと秘密を教えましょう。

私たちはね、そっと記憶を抜き取られてるの。
コピーされているという感じ。
それはもう1つのそっくりの世界にある銀行みたいなところに
預けられているんだよ。

嗚呼、この話は絶対に秘密。
誰にも言っちゃいけないよ。
だからそっと秘密を教えましょう。
彼らはとてもシャイだからね。

それでね、その記憶を記録してね、投資しているんだって。
投資信託?ファンド?トレード?証券?
難しいことはわからないけど、それをね。運用しているんだって。
それでね、だからね、いい記録がいっぱいあったほうがいい記憶をいっぱい運用して、いっぱいもらえるんだって。

この話は絶対に秘密。
誰にも言っちゃいけないよ。
でもね、だからそっと秘密を教えましょう。
頭の記憶に残しちゃいけないよ。
もっと底の底のところに残しましょうね。

彼らはそっくりなんだよ。私たちと一緒。
そうしてね、12月の31日になるとゼロにしちゃうんだって。
預けたものを記録全部をね。
ペイしちゃう。
それでまた、元(はじめ)から。

この話は絶対に秘密。
誰にも言っちゃいけないよ。
だからそっと秘密を教えましょう。
では、どうしてこんな話をしたかっていうのでしょ?
今日はね、12月31日だから。
彼らのお仕事をこれで、いったん終わりだからね。
だからね、記憶じゃない記録じゃない、
もっともっと深い深いところに残しましょうね。

2011/04/18

先が見たくて、見たけれど

例えば、道の先が知りたくて、
私は道を歩き続けました。
そうして行き着いた先もまた道でございました。
気がつくと、私はそこから前にも後ろにも進んでおらず、
ただただ、たたずんでいただけでございました。
そうして、私には、道の先が少し見えた気がしたのです。

2011/04/17

どこー?

いたわりゾーンという不可思議な看板。
いたわる、とは、
弱い立場にある人などに同情の気持ちをもって親切に接する。気を配って大切に世話をする、
こと。
どこー?

2011/04/16

部屋を片付けな理由の正当化


つまり、お前さんが、部屋を掃除しない理由っていうのは、
部屋をキレイにした場合、ゴミが一つでもあると、目立つが、
最初から汚ければ、ゴミが一つあったところで目立つわけでもなく、
むしろ、紛れる、紛れ込む、木を隠すなら林の中という理屈であることは
まぁ、わかった、ということにしておくとして、
ならば、どうしてもお前は、服を着替えないのか、
私はにはそれがわからない、わからないこそ、こうして夜中に私は
ベットに腰をかけて考えているのではないか、
や、考えていると言うことすら、嫌になるぐらいに無駄なことであって、
服を着替えなければ、臭うことになって、周り人だって迷惑をするのだし、
と、ここまで考えて、果たして風呂には入っているのだろうか、
という新たな疑問が浮かんできては、私は、とても重い気持ちになったのであるが、
あれから30分ほども経とうというのに、私は、
そんな君の言動から身動きすら出来ないでいるのであって、
そんなバカバカしさに、身震いをしたのである。
部屋は片付けず、風呂にも入らず、着替えすらしないのであれば、
それは人と言えるのか、人としての最低限度の生活といえるのか、
や、昔の人はお香を炊いていた、焚きまくっていた、
その理由として、自分の匂いを隠すためだったということを考えれば、
嗚呼。
ちなみに、この妄想はまだ、続く。

2011/04/15

浴衣の魔力を信じることがいかに容易であるか、またその考察


お前、そもそもがどうして、オレよりも向かって上の方にいるのか、
まずその問いに答えて欲しいと申しているのだよ。
いやいや、そんなことは知らぬ、存ぜぬことで、
そもそも、上だの下だのということは、見る場所によって左右されるもので、
オレから見たら、お前の方が上になるのだぞ。
何を言っているのか、さっぱりわかないのだから確認をするという手順を踏むことになるので、面倒なことだから、そういうややこしいことを言うのは止めて欲しいのだけど、
結局、オレは上ということでまちがないがないのだな。
そういうことだよ、あくまでも見方によってという言葉は付け加えるけど、上だの下だのという話はやめて、君の話を聞こうじゃないか。
おーそうだった、今日は浴衣について話をしたいと思っているのだけど、君の都合はどうだろう。
浴衣というのは、もっとも身近なイイモノであることは私は物心ついた頃から、いやいや、そうではない気がしてきたので訂正させてもらえれば、23 歳ぐらいから浴衣というものが、よいのではないかと思い始めたのだから、その話をするという件に関しては、もちろん、OKだということだよ。
ならば、良かったよ、というのも、夏になり浴衣に人が増えてきたのだから、それを見るだけでイイモノだと思うのであって、日本に生まれて良かったと思う瞬間にベスト3に入ることだし、それを今の言葉で言うならば萌えなのかもしれないが、萌えという言葉の本来の意味もはっきりわからないのだから、そう安易に使うものではないと思うので、僕はイイモノと表現をしたのだ。
あぁ。その気持ちはよくわかるよ、つまり、アレだろう、萌えという言葉にアニメやら何やらの先入観のようなものがあって、それに邪魔されるというか、靄がかかるというか、萌えト言う言葉を使っていながら、手探りで歩いているような不安感があって、だからこそ、本当に心底によいものだと思っている浴衣にはイイモノだという表現を使ってあげたいと思っているのだろう。
そうだ、そういうことなのだよ、萌えなのかと言われると、イヤイヤそういうことではなくて、イイじゃないか、日本人にしか似合わないものだし、立っている姿にすら風情を感じるし、優雅であるし、こういった感想は、そら海外のブランドであるような高いブランドならばあるのかもわからないけど、それでも洋服を着た日本人には感じることがやはり少ないのだから、日本人は基本的に背が低いし、足も短くて、やっぱり似合わないという話は、食生活うんぬんで諸説昔からあるのだから、やっぱり浴衣というのは萌えとかそういったことを超えてイイモノだと思うし、それは日本人にしか当てはまらないというと差別的に聞こえるのかもわからないけど、それでも、なんていうのか、いい意味での差別的なことだと思う。
例えば、例えばの話なのだけど、今、私たちがどっかの部族のように裸になって、狩りをする生活をしようと思えば出来るかもわからないけど、似合わないというか、似合わないのだから無理が出てくるということだと思うのだけど、間違っていないかな?
そういうことだとも。
でも、僕らはこんなつまらない話をしたいわけじゃないという点で、君は同意してくれるかい?
あぁ、もちろんだ、オフコースだ、浴衣を来た女性がいかに魅力的であるか、うなじのあたりがいかに妖艶であるかということだろう。
よかった、君に話が通じていて本当に良かったと思うよ、先ほどは、上だの下だのとつまらない話を持ち出してしまって、今では反省をしているのだ、こんな愚かな僕を君はやさしいのだから許してくれるのだろうけど、時々イヤになるよ。
もうわかったよ、そんなことは気にしちゃいけない、そろそろそういった話をやめようと先ほど話をしたばかりじゃないか。
そうか、そうだった、それが僕の悪い癖なのだ、どうかゆるくしてくれ。
許すも何も、そういった点が君の個性であり、イイモノじゃないか。
ありがとう。
こちらこそ。
でも、浴衣で今時のブランド物のバックを持っているのは許せないと思うな、やはり浴衣には巾着がいいのだし、下駄のような鼻輪がついたやつでなければ、産地偽装とそれほどの差はないと思うのだ。
その件に関しても、同意するよ、僕たちは話があうようだ、さらに言えば、髪は上の方でまとめてくれるとうなじが見えて、それがなんと魅力を増すかは、きっと全国の女性たちに知らせるべきだと思うし、男性たちは、その前ではいかに無力であるか、ひれ伏すだけだということを知るべきだと、僕は君だけじゃなくて、全国の男性諸君に伝えたいよ。
まったく、浴衣の女性というのは、朝に咲くアサガオのようだよ。
いやいや、それは違う、そこだけは納得が出来ないな、僕から言わせれば、ヒマワリだよ。
この件に関しては、2人の意見が分かれたようだね、この件に関しては、また次回の話とすることにしようじゃないか。
そうしよう。
今日のところは、花火と浴衣を楽しもう。

2011/04/11

手の中でこんがらがって。


孫悟空はアレね、オバカさんね、だって、お釈迦様の手の中にいることがずっと気づかなかったのでしょう、本当にオバカね。
いやや、でも、待って、ちょっと立ち止まって考えてみて、もしかしたら、手の中にいることをわかっていたのではないの?その可能性だってないことはないよ、
あえて手の中で遊ばれている振りをしていたと、しかし、お釈迦様もそれを見抜いていて、結局、それっていうのは、何よ、何なのよ、2人の関係は。
しかし、それもどこかの人が考えた話でございまして、それでもしかしたら、私もこうやって考えているつもりの文っていうのも、結局ね、結局のところ、用意されている言葉の中から好きなことば選びとって、
それを並べているだけであって、私も結局、手の中で遊ばれている孫悟空の毛の1本に過ぎないっていう話やもしれんね。
そうすると、何だからとっても寂しい気分になってきて、そういう気分にさせるお釈迦様はなんだかちょっとイケズだわ。

2011/04/10

お師匠様ー。


弟子は師匠に尋ねました。
猿と人との違いはなんですか?
師匠は言いました。
猿は火を消した。人は火を見ていた。
弟子は師匠に尋ねました。
太陽と月の違いはなんですか?
師匠は言いました。
太陽は照らし、月は照らされる。
弟子は師匠に尋ねました。
貴方と私の違いは何ですか?
師匠は言いました。
呼び名が違う。

例えば、ふと思い出してくれるのでしたら。


例えば、星も見えない月も見えない、そんな夜の中で光を見つけるのは容易いのに、
その光を昼間の明るい場所で見つけるのは難しい。
例えば、星も見えない月も見えない、そんな夜の中で光を見つけるのは容易いのに、
その光すら覆ってしまう闇だったら、近くにある光を照らす術を探せばいい。
例えば、星も見えない月も見えない、そんな夜の中で光を見つけるのは容易いのに、
その光も照らせないのだったら、いつか見た光を思い返せばいい。
例えば、星も見えない月も見えない、そんな夜の中で光を見つけるのは容易いのに、
その光すら思い返せないのなら、目を逸らせばいい。
例えば、星も見えない月も見えない、そんな夜の中で光を見つけるのは容易いのに、
目を逸らすことすら出来ないのなら、いつか来る朝を思えばいい。

2011/04/09

雨さんさんと。


私は、雨の数を300まで数えたところで止めた。
雨を数えることが無駄だということに気がついたからだ。
しかし、私には雨を数えるような、そんな無駄だと思える時間が必要だし、
大切だと思うし、数えている瞬間だけは、他のいっさいを忘れることが出来る。
日頃の生活の中で、常に何かを考えていることに驚かされる。
お金のこと仕事のこと欲しいもの、今日、何を食べるのか?何のテレビを見ようかすら考える。
常に何かと考えている。
考えなくてはいられなくなっている。
考えない時間は、無駄だと教え込まれている。
だからこそ、私には雨を数えるような、無駄だと思われるような時間が必要だ。

2011/04/08

頭ん中


アナタの頭の中がどうなっているのか実に興味があります、と言われることがありました。
それについて書くことをしようと、私の頭は考えます。
思考中。
私の頭を説明するには、まず公園の話からしなければなりません。その公園は近所にあり、私は口の中公園と呼んでおりますが、他の人は呼んでいません。公園の真ん中にはベロンと舌のような滑り台がのけぞっており、その両隣には奥歯のようなベンチがあって、うえの方にはブランコがブラブラして、それはまるで前歯のようです。それでもって、私は入り口のところに立っているのだから、下あごの前歯です。ある日、奥歯んところに座っているOLらしい女性からこっちに来なさい、こっちに来なさいと言うのですから、そっちにいってみるとOLらしい女性が奥歯をパンパンと叩きます。私は横に座りながら、この人は奥歯に座って何をしているのだろうとぼんやり思っていると、OLらしい女性が舌のようなすべり台を指差してあの下がどうなっているのかと聞くので、知らないと答えると、私も知らないと言って笑いました。カカカ!笑い終わるとアナタの頭の中がどうなっているのか実に興味があります、と言われましたので、私にはわかりませんが興味がありますと答たえると、彼女はそれを確認すんには目ん玉を奥の方に押し込んで見てみるか、口の中から小型カメラを入れて脳を見るしかないわね、と言って笑いました。カカカ!私は会話がなんだか楽しくなって来ました。アナタはいつもそこにいるのね、そうしていつもそこにいるのね、と言うものですから、えぇ、まぁ、そうですね、と曖昧に答えて、それにしても、今日は暖かい日でありますね、と答えました。すると、OLらしい女性はカカカ!と笑って首が取れるんじゃないかと思うぐらいにうなずき始めたので、私は怖くなって首を支えようとしました。すると、OLらしい女性は、アナタは私を殺そうとしたのでしょう、そうでしょう、私には私がわかります、私をバカにしているのでしょう、私の場所を奪おうとしているのでしょう、と騒ぎたてるので、私は怖くなってその場から逃げようとしましたが自分がどうしたらいいのかわからなくなって、奥歯に挟まれたままになってしまいました。その横で、彼女の顔は見る見るうちに真っ赤になって、獅子舞のようにな顔になりました。あまりにそれが獅子舞のようでしたので、今度は私がそれを見てカカカ!と笑ってしまいました。するとどうでしょう。獅子舞のような顔をしたOLらしい彼女が口をパクパクさせはじめて私の頭をパクリとその大きな口で食べてしまいました。それからというもの私の頭は獅子舞のような顔をしたそのOLらしい女性の口の中に存在します。適応能力というのはすごいもので、慣れてくると、彼女の目から外の世界を確認することができるようになりました。
後日談。
その舌のような滑り台の下のところに穴のようなものがポッカリとあきまして、それを眺めていたら、眺めてるといっても彼女の視線でもあるのですが、僕らしい人が出てきて、公園の入り口から出ていきました。
今、こうしているのは、果たして私であるか僕であるか、よーわかりませんが、それでも、私と僕と頭ん中と元気です。元気でやってます。

2011/04/05

書を捨て。

初めてを見て、初めてを感じる。
嗚呼、生きてる。

2011/04/04

2011/04/01

春なのだし。


許しましょう。
なんて、なんて偉そうな言葉。

自分だってミスをしたり、間違ったりして、迷惑かけて、そういうのを周りの人から
許してもらっているのに、
許しましょう。
なんて、なんて偉そうな言葉。

お互い様。
なんて思うようにしよう。

そうして、周りの人とお互い様になって、
そうなれば、色々なことが笑えて伝えられるようになって、
周りの人のことも見えようになるのだし。

自分のことを棚に上げるのはやめよう。
自分だって、出来ないことがあるのだし、未熟なときだってあったのだし、
周りのその人も、何かと必要な存在なのだし。

そうやっていけば、心の底んとこから何かが変わる気がするんですもん。

例え、それが綺麗事だと思っても、
綺麗な言葉は聞くようにしよう。

汚い言葉は聞き流すようにしよう。


そうやっていけば、心の底んとこから何かが変わる気がするんですもん。

そう思いたいのです。