ワタシは道を歩いていて、右手にコーヒー、左手にサンドイッチを持ち、どこか遠足ですか?と尋ねられれば、そうですね、まぁ、そうですね、と答えるつもりであったが、誰にも聞かれることがなかったために、
その言葉を使うことはなかった。つまり、その言葉はこの世の中に存在することすらなかったのだけど、今回の話にそれは関係がないと思う。現時点。ワタシの前方に信号機が見えてきた。それが視界の果てに見え途端、彼は走り出し、その信号機の横に立ってみて、信号機を見上げた。ぁーリンゴみたいになりたい、彼は人に聞こえるか聞こえないかという程度の声で言いましたが、周りに人がいなかったために、それは誰にも聞こえなかったですが、信号機には聞こえていました。
しかし、信号機は言葉を話すも動くこともできず何をすることもできませんので、その状況というか置かれている環境がどうにも変わることもありません。
それでも、彼は信号機に向かって話し続けます。ワタシはね、ワタシはリンゴみたいになりたいけど、信号機だっていいんだよ、ワタシはそういうのになりたいって、そうして、つまりね、
赤を赤って言うでしょ、誰もがさ、それがね、うらやましいわけよ。例えば、寿司を食べて、おいしいって言うわな、おいしい!って、でもさ、それわさ、私はおいしいと思うけど、アナタどう思いますかっていうニュアンスが含まれているわけで、リンゴが赤いっていうことじゃないわけで、客観性に欠けるのね、もちろん、科学的にりんごの甘さを数字で出すことも可能でしょうが、それはおいしいじゃなくて、甘みという数値が出ているだけで、リンゴが赤いっていうのと同じレベル、同系列、同じ高さって言う話じゃないのだよ、赤っていうのは赤なわけで、青っていうのは青なわけで、黄は黄なわけで、赤をどうして赤なんだっていう人はいないでしょう、もちろん、いないことはないよ、でも、それを言ったらお仕舞いでしょう、そうしないと言葉なんて曖昧なものでしょう、言葉っていうは信用の上でのものでしょう、っていう空気があるわけで、その空気っていうのも、誰しもが感じる共通のものじゃないわけですから、って、その話は先ほどもしましたね、だから、私は信号機みたいになりたいっていう話の続きをね、すると、赤は赤よ、止まれよって、誰しもが納得してくれるのがうらやましいし、それに憧れるのよ。信号機は赤を赤と認識しながら赤と表現すんのでしょう、私も赤を赤と認識しながら、雲1つの曇りもなく、私が赤を見て赤だ、赤だよねって思うぐらいの確信を自分の中の不確かなものに対しても突きつけられるようになりたい。だから私は、信号機みたいになりたいんだ。
嗚呼とワタシは呟いた。
結局、どこを歩こうが、何を食べようが、何を飲もうが、それは結局、自分の中のもので、風呂場だろうがコンビニの中だろうが、何も変わらない、自分の中のものを決めるのは、やっぱりそれは自分なのだということを知ってしまったんだな、その人は。
と、信号は呟いた。
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