お風呂にぼんやりと浸かりまして、水道を眺めておりましたら、
ぽんつと一滴の水滴が落ちましたから、
それを何のなしに見ていたら、ふっとあっと、とんでもないことに気づいた気になったのです。
というのも、この一滴がは、お風呂の湯船に入りますと、
それはもう一滴ではなくて、お風呂一杯なわけで、
なんと例えて良いやらか、あんな小さかった一滴がこんなに大きくなってー、
という正月に一度ぐらいしか会わないのに、こんなに大きくなったも小さくなったもないだろうに
と思った子供心を思い出します。
それでも、お年玉がもらえるとあれば、例え何を思ってもその場にはいましたし、
それはもう義務みたいなもので、
親戚の方々も、義務みたいなもので渡していたと思うし、
あの家が三千円くれたなら、うちも三千円は返さないとねーという具合。
なのだから、私はその水滴を毎日見続けているっていう具合において、
親戚の人よりも水滴との距離は近く、
思わず、こんなに大きくなってーと言うことが言える権利はあるのです。
文末でございますが、ところで「逆上せる」と書いて「のぼせる」と読むこの不思議。
のぼせることは、「ぎゃくじょう」することなのでしょうか。
つまりそれは、国語の辞典におきましては、
「頭に血が上ること」で、怒り心頭で頭に血がのと、夢中になって頭に血が上るのと、
人間の生理現象としては、唯一無二なことでして、
私はすっかりと、この水滴な現象に逆上せておるのです。
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